[ホーム漢文入門]

方法論


 まずは漢文を読解するための方法論と、辞書などを紹介します。

  1. 音読か訓読か
     日本では長らく、漢文を中国語として音読せず、返り点を駆使しながらいきなり日本語として読むという訓読を行ってきましたが、明治以後に中国語を学ぶ日本人が増えてくると、中国語として音読する人も増えてきました。このように一番基本的なところで方法論の対立があるという言語は、日本における漢文読解を除いてはたぶん他に例はないことでしょう。
     根本的な点で対立しているためにこの両者は大変仲が悪く、「訓読なんてばかげている」「訓読こそ日本の伝統だ」と批判しあっています。しかしこのようなケンカの一方で、現実にはもっと深刻な事態が出現しているのではないでしょうか。すなわち、中国語畑では現代語に力をいれるあまり漢文をおろそかにしているし、漢文教育の荒廃によって訓読の技術も低下しているので、「邯鄲の歩み」よろしく、音読も訓読もできず漢文が読めなくなっているというのが実情かもしれません。
     これに対する私の結論は、「音読にも一長一短あり、訓読にも一長一短あるので併用せよ」という、至極平凡で穏当なものです。しかしこれは、両方に顔をたてた八方美人的なものではなく、逆に「音読だけしてちゃダメだよ。訓読だけしてちゃダメだよ」という、両者に対する強烈な批判であると思ってください。
     ですから以下、音読・訓読の長所ではなく短所をあげて説明することにします。



  2. 音読の欠点(1) 音読のための参考書も辞書もない
     まず日本では、漢文を音読で読解するための参考書も辞書もないので、「漢文を音読で理解せよ」というのは空疎なお題目にしかなっていません。辞書も文法書もみんな訓読のためのものばかりです。最近の朗読ブームを反映して、漢文を中国語で朗読したCDなどはいろいろありますが、音読してそのあとにどう読解するかという方法論を明らかにした本は絶無。若干あることはありますが絶版だったり、ピントがぼけていたりしてお勧めできません。ですから、漢文を音読で読解するというのは、やりたくてもできないというのが実情です。
     現在出回っている現代語の中日辞典は、原則として現代語の語彙ばかりを載せていますが、親字の説明部分には一応漢文の意味も載っています(親字方式でない岩波中国語辞典でも一音節語として載っていたりします)。それをつなぎあわせていけば、現代語用の中日辞典で漢文を読むことは一応可能です。ひょっとしたら「漢文を中国語として音読で理解せよ」と主張する人は、そういう読み方を提唱しているのかもしれません。しかし、中国語を専攻する学生も、現代語用の辞典で漢文が読めることを知っている人はほとんどいません。知っていたとしても膨大な現代語用語彙が邪魔で非常に不便なので普通そういう使い方をしません。そもそも、一字一字中日辞典を引くというのは、一字一字漢和辞典を引くというのと大差がないので、中日辞典を使って漢文を読むくらいなら、漢文に特化された漢和辞典を使うほうが便利なのです。



  3. 音読の欠点(2) そもそも漢文は音だけで理解できるものではない
     中国人は訓読などしないので、中国で出ている辞典や文法書には、漢文(ふつう文言とか古漢語とかいいます)に特化されたものがいろいろあります。それらを使えば、中国人同様に、漢文を音読で理解できるのかもしれません。
     では中国人はどのようにして漢文を音読で理解しているのでしょうか。
     われわれ日本人だって、よほど古文に慣れた人でなければ『源氏物語』を朗読されても理解できません。ですから現代語訳します。それは中国人も同様です。『戦国策』「虎の威を借る狐」の冒頭を例にあげると、次のように現代語訳するのです。
    (漢文)虎求百獣而食之、得狐。狐曰:
    (現代中国語)老虎找各種野獣做食物、有一天找到一隻狐狸。狐狸説:
     これを見ると、まず「曰→説」のように全く語彙が異なる部分があります。また「而」にあたるものが存在しなかったり、「食之→做食物」のように文法的構造が異なる部分があります。さらに訳文の「有一天找到一隻」の部分は原文には存在しない補足事項です。
     この程度なら世界のどんな言語の文語→口語訳にも見られるところですが、漢文→現代中国語の場合は、もう一つ重要な違いがあります。例をみると「虎→老虎」「獣→野獣」「狐→狐狸」のように、漢文で一字の語が現代中国語では二字の語になっている部分がいろいろあります。
     よく、「漢字は一字一字に意味がある」なんていいますが、意味があるからといってそれで一単語としていえると思ったら大間違い。少なくとも現代中国語では単独で一語になることができない字が多いのです。たとえば「狐」は一字では単語としては使えず、必ず「狐狸」「白狐」などのように他の字と組み合わせなければなりません。つまり「狐」というのは語を組み立てるためのパーツにすぎず、他のパーツと組み合わせて初めて現実の発話中で語として使えるものなのです。ところが漢文では「狐」だけで一語として使えてしまうのです。
     これは、昔の中国語では「狐」だったのが「狐狸」に変化したのではなく、昔の中国語でも(「狐狸」ではなかったかもしれませんが)たぶんそれに似た多音節語だったのです。だが漢字は字画の多いのでしゃべるとおり全部書くのは不便だし、またそもそも表記法が確立されていなかったので(広東語や上海語などの方言を勉強したことのある人ならおわかりの通り、現代の口語にだって文字として書けない語はいくらでもあり、そういう部分は□と書いてあったりします)、より本質的な部分である「狐」だけを書いたのです。
     だいたい、中国語の音節は単純で、英語みたいに二重子音なんかありません。だから現代の北京語では声調の違いを考慮しても1200未満です。昔の中国語ではpやtやkで終わる入声などもあってもっと複雑だったでしょうがそれでも3000以下でしょう。それで一字(一音節)一語だったら3000語しか表現できないことになってしまいます。いくら古代でも3000語ではまともな言語生活はできません。だから当然音節を組み合わせて一語になるのです。狐húだけじゃ聞いてわからんから、húlí という。ただしlíのところはどう書いていいかわからんから、húのところだけ「狐」と書く。時代が下るとhúlíのところにも「狸」という字をあてるわけです。「狸」なんていう意味はなくても同音なのでとりあえず「狸」という字をあてておく。
     さきに、「われわれ日本人だって、よほど古文に慣れた人でなければ『源氏物語』を朗読されても理解できません」と書きましたが、実をいうと、慣れれば理解できるのです。ところが漢文ではたぶん慣れても理解できません。húなら狐以外に壷・鵠・胡…などいろいろあります。これじゃ耳で聞いただけでは絶対にわかりません。「狐」という文字を見ながら聞いて初めて理解できるのです。
     このように漢文は当初から、しゃべる通りではない、口語とは乖離した性質をもった、書写を前提とした人工的言語でした。とすれば漢文は、音読したからといってそれだけで意味がとれるようなものではないのです。



  4. 音読の欠点(3) 文法構造の把握がおろそかになる
     また、漢文は語形変化をしないこともあり、音読だけでは文法構造の把握が不明確になります。たとえば「読書」というのは「読む・書を」という動詞・目的語構造かもしれませんが、ひょっとしたら「読む(ための)→書」のように上が下を修飾しているのかもしれません。現に「読本」はそういう構造の語です。「氷解」は「氷が解ける」のかもしれませんし「氷のように解ける」のかもしれません。音読ではこの違いがよくわかりませんが、訓読では返り点や送り仮名によって文法構造を明確に示さねばならないので、音読よりも精密な読解ができることだってあるのです。
     『源氏物語』がウェーレーの英訳によってはじめてよくわかるようになったと正宗白鳥が感嘆したという有名な話(正宗白鳥『英訳「源氏物語」』S8.9「改造」に掲載された「文芸時評」。新潮社・正宗白鳥全集第8巻)もあるように、外国語に翻訳することによって意味が明快になることだってあります。音読だけでは不明確になるものが訓読によってよくわかることは多々あるのです。
     実際、大陸や台湾から日本に来た留学生が、漢籍の和刻本をお土産に買っていくというケースはけっこうあるのです。和刻本の句読点や返り点などは文法構造を示してくれるので、中国人にとっても読解のヒントになるというのです。



  5. 訓読の欠点(1) 訳語の固定化
     そのいっぽうで訓読も万能ではありません。
     訓読の弊害としてよくあげられるのは「上から下に理解せず、返り点を使ってアクロバット的に読むことの不自然さ」です。しかし実はこれはたいした弊害ではありません。日本語と中国語は語順が違うのですから、いくら上から下に理解しようとしても、われわれの意識の中ではどこかで「返り点を使って」いるのです。英語だって日常会話程度なら上から下に(左から右にか?)理解しているかもしれませんが、複雑な構造をもった文だと、「この関係詞節はこっちにかかって…」とかやってます。まさに返り点です。語順の違う言語に取り組む以上、返り点を使うのは宿命といえます。それに、前項に書いたように、返り点を使うからこそ音読以上の精密な理解をすることだってできます。
     実は、訓読の一番危険な点は、知らず知らずのうちに訳語が固定化されて、原文のもつ微妙なニュアンスが消えうせてしまうことなのです。たとえば「読」をひとたび「よむ」と読んでしまうと、それでわかったつもりになってしまいます。が、「よむ」には他にも「念、訓、詠…」などあり、これらを全部「よむ」と読んですませてしまうと、原文のもつ細かなニュアンスの違いを読み落としてしまいます。もちろん翻訳にはこういう危険性は常につきまとうのですが、訓読の場合は「読み」として訳語が固定化してしまうので、より危険性が増すのです。



  6. 訓読の欠点(2) 訳語のズレと誤読の危険性
     訓読は文語体でやらねばならないので、日本語の文語文法に強くなくてはなりません。いうならば古文(日本語の文語のことです)で作文をするような能力が必要になります。最近の若い人は漢文はおろか古文もまともに勉強していないので、かなり練習しないとつらいでしょう。「漢文を音読で…」という裏には、案外「古文で訓読するのがわずらわしい」という思いがあるのかもしれません。昔の人にとっては訓読=翻訳だったのですが、現代人にとっては訓読→翻訳という2ステップの作業になってしまい、けっこうわずらわしいものがあります。
     しかし実はこのこと自体は欠点というより長所です。訓読だけであまりにわかりやすい訳文ができあがってしまうと、上に述べたような訳語の固定化がより深刻化することになるでしょう。意訳の前にまずは直訳するようなもので、訓読というのはあくまでよりよい訳文を作り上げるためのプロセスにすぎません。訓読でできあがる日本語が古めかしい文語だからこそ、現代人なら誰でも、「これでおしまい」とは思わず、さらにこなれた訳に仕上げようという気になることでしょう。これはこれでいいことなのです。
     ですが、伝言ゲーム同様、この2ステップの作業の間に思わぬ誤解が入り込む危険性もあります。「漸」(だんだん)は訓読では「ようやく」と読みます。もともと日本語では「ようやく(やうやく)」は「だんだん」という意味だったのですが、その後に「漸」とは無関係に「やっとのことで」という意味に変化してしまいました。ですから「漸」を「ようやく」と訓読することによって、「やっとのことで」と誤訳してしまう危険が入り込むことになったわけです。
     そもそも、同じ漢字を使っていながら中国と日本で意味が異なるものがけっこうあり、「手紙」(トイレットペーパー)、「新聞」(ニュース)、「汽車」(自動車)など、よくクイズ番組のネタになっています。現代語のみならず、「勉強」(力を尽くす、無理やり行う)、「書院」(役所名、教育機関名)などのように昔からの語でもそういうのはいろいろありますし、
     「訳語の固定化」「訳語のズレ」にひっかからないためには、時には訓読というプロセスを経ずに、ダイレクトに原文の意味にせまることも必要になります。このためには音読が有効です。音読といってもこの場合、声に出すという作業を強調しているのではなく訓読を離れて外国語として理解せよということです。このためには中国で出ている辞書を使うのが有効です。漢和辞典の場合は訓読みを見て満足せず、その先の詳しい説明を見るようにします。



  7. 訓読の欠点(3) リズムの把握ができない
     漢文は耳で聞いただけではわからないとはいえ、もちろん読むことは可能ですし、それはそれで読みのリズムというものがあります。また、ひとたび読まれればその表現がたとえば「狐假虎威 hú jiǎ hǔ wēi」(権力者の威勢を笠に着る者)のように成語として口語の中にも入ってきます。húだけではわからなくても、こういう成語になれば十分にわかりますし、学のない庶民も平気でこういう表現を使っています。こういう実例を目の当たりにすると、訓読だけやってちゃダメだとつくづく感じます。
     また、現実の漢文のテキストは句読点が打っていないことが多いのですが、どこで句読点を打つかということが、音読のリズムにしたがっていることが多いのです。だから正しい訓読をするためには音読してみるというプロセスが必要です。
     だいたい、現代中国語を知らないと、現代中国で出た参考書を使いこなすことができません。



  8. 白文の読み方
     以上、音読にも欠点があり、訓読にも欠点があるということを長々と説明しました。
     そんなわけで音読と訓読とを併用しなければならないわけですが、では具体的にどういう順序で白文を料理すべきなのでしょうか。
     「まずは音読」といいたいところですがそうではありません。訓読のほうは訳さなきゃできないのは明らかですが、実は音読だってそうです。漢字には破音字(一字で数種の音を持つ字)がやたらにあり、それは意味の違いで読み分けるのです。だから音読だって、訳さなきゃできないのです。
     高校生用の教科書には「白文→句読点→訓読→口語訳、という順で読解する」などという説明があったりしますが、訳さなきゃ訓読できませんし、文法構造を解析する、つまり訳してはじめて文の切れ目がわかるのです。だから実はこの→は←なのかもしれません。つまり正しく句読点を打つというのは、読解のスタートではなくてゴールなのです。まぁそれは極端としても、実際には→でも←でもありません。つまり「句読をうつ」「訓読する」「口語訳する」は同時進行です。こうでもない、ああでもないと悩みに悩みながらパズルを解いていくようなものです。
     同時進行ですからその時その時で順序が異なりますが、通常は次のような手順でやります。

    1. 事前情報収集をする
       前回の「口上」で書いたことの繰り返しです。人間はまったく未知なるものを理解することはできませんので、事前情報収集が大事です。これから読む本はどういうことがどういうふうに書かれているのか、背景知識を含めて頭にたたきこんでおきます。あるいは、すぐに調べることができるような参考書を準備しておきます。



    2. 固有名詞・専門用語を洗い出す
       その上で、文中に出てくる固有名詞や専門用語に残らず印をつけ、こういう部分を普通の語として訳してしまわないようにします。もちろん、読んでいくうちに固有名詞だとわかる場合も多いので、わかり次第印をつけます。



    3. 一字一字辞書をひく
       このようにして洗い出した固有名詞や専門用語以外の部分は、一字一字辞書を引く覚悟で臨みます。漢和辞典にせよ中国語辞典にせよ、われわれはついつい親字の説明を素通りしてその字で始まる語のほうに直行しちゃいますが、漢文では一字一字の独立性が非常に強いので、親字部分の説明を見ます。なお、漢和辞典の場合は訓読みにとらわれてはいけません。訓読みは無視する覚悟でいきます。



    4. 会話の範囲を見破る
       「曰」「云」「謂」「言」だのがでてきたらそこからが会話の始まりになるし、曰「××」曰「××」のように連続していたら会話の終わりもわかるので、この手の字が出てきたらカギカッコをくくります。



    5. 文末表現に注意する
       「也」「矣」「乎」などが出てきたらたいていそこが文末です。もっとも「也」「乎」は文中で使われることもあるので、文末に来ることの多い字の文中用法は意図的にしっかり覚えておきます(たとえば「乎」は「於」と同様に使われることがあるなど)。



    6. 対句・繰り返し表現を見破る
       「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」のように、対句や繰り返しの表現を見破ると文末がよくわかるので、繰り返しの構造をいち早く見破ることです。また「AならばB、BならばC、CならばD」のような尻取り式の表現も多いので、同じ字が連続していたらそこで区切れる可能性が高いです。「色不異空空不異色」も、「空空」というところで区切れるわけです。



    7. 動詞をつかむ
       漢文は英語と同じ五文型をベースとしているので、どこが動詞になっているのかをいち早く見破るのがポイント。その前はたいてい主語だし、そのあとはたいてい目的語や補語です。もっとも英語と違って主語は必須でなくどんどん省略されるので要注意。



    8. 文法事項を見破る
       漢文では文法といわずに句法ということが多いですが、文法事項をいち早く見破ることが文末を見破るポイントになります。



    9. ともかく読んでみる、書いてみる
       区切りがよくわからないときは、ともかく音読してみると、文に内在するリズムがつかめ、区切りを見破ることができるかもしれません。
       それ以上に有効なのは、ともかく手で書き写してみることです(だからコンピュータは不可)。「手が疲れてペンを置いたところがたまたま区切りだった」ということが意外に多いのです。漢文は人工的な文章語なので、音読のリズムよりも手書きのリズムのほうが確かなのかもしれません。


     意味がとれて文の切れ目がわかったら、音読なり訓読なりをします。音読の場合は多音字に注意します。また「白」báiは文語ではbóと読みます。そういうものはどちらでもかまいません。現に、中国で出ている論語の朗読CDではbáiと読んでいたりします。
     それから、漢文では縦書きテキストを読むことが多いので、できれば注音符号(注音字母)を覚えたほうがいいでしょう。注音符号ならば縦書きでもうまく書けます。注音符号の入門としては当サイトのよみがえれ急就篇・発音をごらんください。
     音読派の場合は文法構造の把握が不明確でもなんとなく訳せたような気分になってしまうことを避けるため、必ずしっかり口語訳してください。返り点は文法構造を簡潔に示すことができて便利なので、音読派も返り点ぐらいはつけるといいでしょう。
     訓読派は返り点や送り仮名をつけたり書き下し文を書いたりするわけですが、それで満足することなく、必ずしっかり口語訳してください。その際には書き下し文の訓読みの仕方にとらわれる必要はありません。訳語を変えたり語句を補ったり、語順だって必要に応じて変えていいのです。また、原文のリズムが白文読解のヒントになることもあるので、日本漢字音でもかまわないから、一度上から下に棒読みするほうがいいと思います。



  9. 読むための道具
     中国語では辞書や文法書やその他の参考書を総称して「工具書」といいます。読むための道具としての本というわけですね。以下、この語を使わせていただきます。

     さて、以下のすべての工具書に言えることですが、できる限り旧字体・繁体字のものを使ってください。日本の新字体のものも使いにくいですが、中国の簡体字のものはなおさら使いにくいです。単に字体の違いなら読み替えればいいのですが、字体の簡略化に際して異なる数種類の文字を一つにまとめてしまっている場合が非常に多く、意味を理解しないと元に戻せなかったりします。たとえば「餘→余」ですが、一人称代名詞なら最初から「余」です。これに気づかないと原文が「余」なのに「餘」に相当する語義まで読んでしまって混乱することになります。また固有名詞では判断不能になることすらあります。原文は旧字体で書いてあるかもしれませんが、説明文中に簡体字で出てきたりすると元に戻すのが大変です。
     また、漢字には多音字がけっこうあるので、発音順に並んだものは使いにくいです。特に中国語辞典では発音別に分断されているケースが多くてわずらわしいことこの上ありません。いくら「xxxページを見よ」なんてあったとしても、そのページを開けるのすらわずらわしいです。

     まずは事前情報収集のための工具書。これは分野によりまちまちなので省略します。一般的には百科事典的な大規模辞典があると便利です。とりあえず日本のものでは『大漢和辞典』(大修館書店)がいいでしょう。略字を使っていない点でポイントが高いです。旧版は古本屋ではけっこう安い値段になっていますが、間違いが多いのでできれば1980年以降の新版がいいです。それでもまだまだ間違いや不正確な記述が随所にあることでしょう。この手の大規模辞典ではそれは仕方ないことです。大漢和をひいてそれで満足するのではなく、これをとっかかりにして原典にあたるなどすることです。なお、旧版にない補巻と語彙索引は単独でも売っています。旧版も新版も原則としてページ数に変更はないので、旧版利用者はこれだけでも別に買うといいかもしれません。しかし、補巻を引きなおすのは面倒でついつい怠ってしまいますし、語彙索引の必要もあまり感じません。
     中国の百科事典的工具書には『辞海』『辞源』『漢語大詞典』などありますが、ほとんどが簡体字を使用しているのでお勧めしません。もっとも『辞源』は旧字体なのでOKです。台湾で出ている『中文大辞典』もよいでしょう。また、『辞海』『辞源』は、民国時代に出版されたものがいまでも古本屋や中国書籍専門書店に廉価で出回っています(私はどちらも2000円程度で入手しました)。民国時代のものは説明が文語つまり漢文ですので、現代中国語に弱い人でも使えます。しかも全1冊で、片手でなんとか持てる程度にコンパクトです(そのかわり文字は小さい)。こういうのを見つけたら買うといいでしょう。
     なお、『漢語大詞典』は香港商務印書館から『漢語大詞典光碟繁體單機3.0版』というCD-ROM版があり、これは繁体字で用例もすべて載っているのでOKです。日本語Windows2000/XP/Vistaでも動作可能です。→製品レビュー:漢語大詞典 光碟繁體單機3.0版
     あとは『漢和大字典』(学研)の付録「中国の名著」は、主要な中国の古典の説明になっていてとても重宝します。もっともこの字典は2005年に改訂されて『新漢和大字典』という名前になりましたが、この付録が削除されてしまいました。
     また「今昔文字鏡」というさまざまな漢字を扱うことができるユーティリティがあります。本来すべてフリーなのですが、紀伊国屋書店から製品版が出ています。フリーなのになんで製品版を買うかというと、製品版の検索プログラムには、大漢和辞典の何巻の何ページに載っているかという情報が載っているので、大漢和辞典の索引がわりに使えるのです。ちょっと高いですが、大漢和がまだ電子化されていない状況では、とても便利に使えるのでご紹介いたします。

     次にふだん用の辞典。一字一字を大漢和でひいてもいいのですが、まさかそういうことをやる人はいないでしょう。もっとも『漢語大詞典』CD-ROM版ならやる気になるかもしれません。今後大規模辞典がCD-ROM化されたらそれを使うのが一般的になるのでしょうね。目下のところはできるだけハンディな単漢字主体の「字典」を選びます。
     中国語辞典類は「発音順」「簡体字」なのですべてアウト。台湾でいろいろ出ている字典、たとえば『國語日報學生字典』などならOKです。
     当サイトの「WEB支那漢」の元ネタ『支那文を読む為の漢字典』(研文出版)は、1915年に上海商務印書館で発行された、陸爾奎、方毅『学生字典』を文語体で翻訳したものです。旧字体だし、訓読みなどの日本の用法が載っていないので、混乱のもとにならずにすみます。説明が文語体であることさえ苦にならなければ最高の選択です。逆に、説明が文語体であるぶん、適切な訳語を自分で考えるクセがつくのでよいかもしれません。
     漢和辞典を使う場合は「日本の略字に惑わされない」「説明が本当に中国の用法かどうか(日本でしか通用しないものでないかどうか)確認」「訓読みを見てそれで満足しないこと」の三点に注意します。従来は『新字源』(角川書店)が定評がありましたが、文法的な字の意味が巻末の「句法一覧」にまとめられて、本文内ではカットされているので、二度手間になるのがわずらわしいです。最近出た漢和辞典では『全訳 漢辞海』(三省堂)がいいです。品詞別を明示したり、日本のみの用法を[日本語用法]という形でしっかり分けているので、漢和辞典にありがちな誤解が最小におさえられるでしょう。
     また、上でちょっとふれた『漢和大字典』(学研)は、紙媒体辞書としては(小さい版型である「普及版」すら)ちょっと大きいのが難ですが、CD-ROM化されており、ハードディスクに入れることもできるので日常用の辞書として便利です。漢和辞典のCD-ROMというのは意外に多くなく、現在はこれと白川静『字通』ぐらいしかないと思います。学研の漢和大字典のCD-ROMは、パッケージは「楽しむ辞典」とか書いてあるし4800円という安価な値段もあってちゃちな印象を与えますが、中味は藤堂明保著のりっぱな辞典です。もっとも上古音や中古音の推定音価のローマ字表記部分は収録されていませんし、上記であげた付録「中国の名著」も収録されていませんが、日本のみの用法も明記されているので安心して使えます。

     文法書は何か適当なものがあれば十分です。「この字は文法的な助字だから字典でなく文法書を見る」などというわずらわしい二度手間は避けるべきです(上述のように私が『新字源』を勧めない理由はそれです)。全部一冊の字典ですませたほうがいいのです。どうしてもというなら『漢文語法ハンドブック』(大修館書店)がいいです。訓読の処理を日本語の文語文法の面からもしっかり書いてあるので便利です。



  10. 漢文の参考書
     漢文関係の参考書はいろいろありますが、読解力を高めるのに役立ちそうなものを掲げておきます。

    二畳庵主人『漢文法基礎』(増進会出版社。1977/1981)
     残念ながら絶版。しかも高校生用学習参考書扱いされている(増進会とはあのZ会です)ため国立国会図書館や都立中央図書館をはじめほとんどの図書館に蔵書されていない! たまにネットオークションに出ると法外な値段がついたりします。しかたがありませんので青蛙亭の研究員に限って閲覧できるようにしましょう→(研究室へのお誘い)。
     一応高校生用の大学入試向け参考書ということになっていますが、今日びの高校生にこの内容が理解できるとは思えません。かなり高度な内容です。
     なお、二畳庵主人の正体は元・大阪大学教授・加地伸行氏。本人は長らく認めていませんでしたが「諸君!」(文藝春秋)2007.10の「私の血となり、肉となった、この三冊」で告白しています。
    小川環樹、西田太一郎『漢文入門』(岩波全書。1957)
     「序説」「短文篇」「各体篇」「漢字の形・音・義」という4部構成になっており、序説で漢文の語法を概説した後、短文篇、各体篇で実際の文章を読んでいく体裁です。採録された文章は書き下し文がついていますが口語訳はありません。おそらく教科書として使うことを想定してのことでしょう。しかし詳細な注がついているので独習が可能でしょう。詩に関してはまったく扱っていないので別の本で補う必要があります。
    小川環樹『唐詩概説』(岩波文庫(青版)。2005)
     上記『漢文入門』が詩を全く扱っていない点を補うのにいい本。もとは岩波の「中国詩人選集」の別巻(1958)でその後「小川環樹著作集」(筑摩書房)にもおさめられたものが岩波文庫として再刊されたものです。単に文学史や作品の紹介のみならず、唐詩の形式、語法、助字に関して詳細な解説があります。
    西田太一郎『漢文法要説』(朋友書店。1948/1997)
     もとは1948年に東門書店から出ていた本を誤植訂正などして再刊したものです。文法事項のみをまとめたもので、他の本に書かれていないような読解のヒントがいろいろあって目からうろこが落ちる思いをすることが多い本です。一般ルートでの入手は困難かもしれませんが中国系専門書店では入手可能です。再刊元の朋友書店(606-8311 京都市左京区吉田神楽岡町8 TEL075-761-1285)で通販もしているようですので問い合わせてみてください。巻末に「専門家からも高い評価を得ております。本書をぜひテキストとして採用くださるようお願いします」とわざわざゴシック体で特筆していますので皆様もぜひお買い求めください(本体価格1200円)。
    西田太一郎『漢文の語法』(角川書店。1980)
     昭和50年代中盤に角川書店から「角川小辞典シリーズ」という、辞典というよりは参考書がいろいろ出版されました(現在すべて絶版)が、そのうちの一冊。上記『漢文法要説』の実例を大幅増補したというような体裁。ちょっと増補が大幅すぎて検索や通読には不便になったきらいがありますが、『漢文法要説』の代用として使えます。
     なお、角川小辞典シリーズにはこのほかに漢文法をまとめたものとして柳町達也『漢文読解辞典』(1978)がありますが、部分否定に関する説など、著者の思い込みによる独特な説が開陳されており、お勧めできません。『漢文の語法』にこの本を批判した部分があります。
     そういう点でクレームが多かったのか、翌1979年には多久弘一、瀬戸口武夫『漢文解釈辞典』が同じ角川書店から出ました。この本は角川小辞典シリーズと同じ装丁ですがシリーズとしては番外になりますので図書館の蔵書検索では「角川小辞典」では出てきませんので要注意。「学習版」という副題があるとおり標準的高校漢文の内容に準拠した内容で、それだけに安心して使えますが、単に文法事項を網羅しただけで特色はありません。1998年に国書刊行会から「新版」として再刊されました。
     以上、類似品に注意ということであえて取り上げました。