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文法-受身



  1. 文脈による受身
    1.人皆寐則盲者不知 rén jiē mèi zé méngzhě bù zhī
     人皆寐[い]ぬれば則ち盲者は知られず
     [訳]人がみな寝てしまうと目の不自由な人はそのことを人から知られない
    2.有功亦誅、無功亦誅 yǒu gōng yì zhū, wú gōng yì zhū
     功有れども亦た誅せられ、功無けれども亦た誅せらる
     [訳]功績があっても処刑され、功績がなくても処刑される
    3.勞心者治人、勞力者治人 láo xīn zhě zhì rén, láo lì zhě zhì yú rén
     心を勞する者は人を治め、力を勞する者は人に治めらる
     [訳]頭脳労働をする者は人を使い、肉体労働をする者は人から使われる
    4.殺人囚於楚 shā rén qiú yú Chǔ
     人を殺して楚に囚[とら]へらる
     [訳]人を殺して楚で逮捕された

     ここまで仮定、比較と見てきましたが、どちらも一番の基本は、「何もなくても文脈から仮定(比較)」というものでした。語形変化のない漢文では、このような文法的機能を文脈によって表現するのが基本なのです。
     受身も例外ではありません。やはり基本は「何もなくても文脈から受身」なのです。
     上例1は文脈から受身となるものの典型です。ただしこれを受身ととるのはヨーロッパの言語の発想かもしれません。日本語でも日常のことばでは「みんなが寝ちゃえば、目が見えないってわかんないよ」というふうに、特に受身の語を用いずに表現します。また「あの人は信用がある」ということは「あの人は信用される」ということであるように、状態や性質を表す述語と受身との境界は不分明なところがあります。文脈から受身を表現する、というより受身であることをあまり意識しないで用いるというのは、自然なことなのかもしれません。
     ただし、のべつ幕なくすべての動詞が受身になるわけではなく、やはり傾向というものがあります。一般的には賞罰、任免関係、つまり、ほめられる、罰せられる、任ぜられる、賞として与えられる、やめさせられる、といった意味の動詞が受身になりやすいといえます。
     いずれにせよ、受身と判断したときには受身で訳すわけですが、訓読では受身の助動詞である「る/らる」を用います。「る」と「らる」の使い分け、およびそれぞれの活用は文法-助動詞を参照してください。特にサ変動詞の受身には注意してください。現代語にひきづられて上例2を「誅され」などとしないようにします。
     受身の動作主、つまり誰にされたのかというのは、介詞「於 yú・于 yú・乎 hū」を用いて表現します(上例3)。訓読の送り仮名は「に」を用います。この介詞は場所も現わしますし比較の対象も現わしますしさまざまな局面で出てきます。比較の場合は述語が形容詞なので区別できるとしても、場所の意味との境界はあいまいです。上例4の「於」はおそらくは場所を表しているのでしょうが、「楚の当局によって逮捕された」ということなのかもしれませんので、受身の動作主を現わしていないとは言い切れません。



  2. 受身の助動詞
    1.信而見疑、忠而被謗 xìn ér jiàn yí, zhōng ér bèi bàng
     信なれども疑はれ、忠なれども謗[そし]らる
     [訳]正しいことを言っているのに疑われ、まごころを尽くしているのに悪口を言われる
    2.吾嘗三仕三見逐於君 wú cháng sān shì sān jiàn zhú yú jūn
     吾嘗て三たび仕へて三たび君に逐はる
     [訳]私は以前に三回君主に仕えたが三回とも君主から追い出された
    3.被人決水縱火、漂焚財物 bèi rén jué shuǐ zòng huǒ, piāofén cáiwù
     人に水を決し火を縱[はな]たれ、財物を漂焚[へうふん]す
     [訳]人に水を流されたり放火されたりして、財物を流出したり消失したりする

     漢文にも助動詞を用いて受身を表す方法が存在します。受身を表す助動詞には「見 jiàn・被 bèi」があります。もっとも古い時代にはこの形は存在せず、論語や孟子では「見」がわずかに登場するのみで「被」はありません。しかし韓非子には「被」が多く出てくるといったふうで、春秋戦国時代に登場しはじめて後に一般的になっていったというところでしょう。
     いずれにせよ訓読ではこれらの文字のところで「る/らる」と読みます。とくに「見」を「らる」と読む場合に、訓点つき原文の形では「見」と表記されるのでうっかり「みる」と読んでしまいがちになります。
     これらの助動詞を用いた場合も動作主は「於~」の形で表します(上例2)。しかし後になると上例3のように「被」の直後に動作主をもってくる言い方が現れます。「被人」(人に~される)+「人決水縱火」(人が水を流したり火を放ったりする)の「人」を1つにまとめているので兼語文(→

  3.  日本語では恋人に対して「愛する人」と言ったりしますが、よく考えてみるとおかしい話です。「私があなたを愛する」のであれば「あなたは私によって愛される」のですから「愛される人」でなければおかしいはずです。ですが、このような議論が屁理屈だと思えるほどに、日本語では「~される人」「~されるもの」のことを「~する人」「~するもの」と言ってしまい、特に不自然に感じないわけです。
     ですが漢文では「~する人(もの)」と「~される人(もの)」とはしっかり区別します。前者は「愛者ài zhě(愛する者)」のように「者 zhě」を用い、後者は「所愛 suǒ ài(愛する所)」のように「所 suǒ」を用います。
     「者」のほうは日本語と語順が同じですが、「者」にひきずられていつでも「人」だと思ってはいけません。「こと」「もの」「場合」「状態」などいろいろあります。「所」のほうは日本語と語順が違うので、返読文字ということになります。
     上述のように「所」は「~される人(もの)」というわけですが、現代日本語ではそう訳すと不自然になるので「~する人(もの)」と訳すことになります。ですが、まずは「される人(もの)」のように訳してみて、それから「~する人(もの)」と訳しなおすことが大事です。たとえば、
    富與貴是人之所欲也 fù yǔ guì shì rén zhī suǒ yù yě
     富と貴(たふと)きとは、是れ人の欲する所なり。
     [訳]富と地位は、人々によって求められるものである
       →人々が求めるものである。
    のように、面倒でもまずは受身で訳してみることが、「所」を理解するポイントです。

     同様に「所以」は「それによって~されるもの」です。たとえば、
    法令者所以導民也 fǎlìng zhě suǒyǐ dǎo mín yě
     法令なる者は、民を導く所以(ゆゑん)なり。
     [訳]法令というものは、それによって民が導かれるものである
       →民を導く手段である。
    というわけです。やはりまずは受身に訳してみて、それを受身でない形に直しますが、「それによって」という意味から「~する手段」「~する目的」「~する方法」などという訳に落ち着くことが多い語です。



  4. 爲~所、爲
    1.先卽制人、後則爲人所制 xiān jí zhì rén, hòu zé wéi rén suǒ zhì
     先んずれば卽ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と爲る
     [訳]先手をとると人を支配するが、後手にまわると人から支配されてしまう
    2.卒爲天下笑 zú wéi tiānxià xiào
     卒[つひ]に天下の笑ひと爲る
     [訳]結局天下の人々から笑われた

     前項の「所」を用いた「爲~所」という構文で受身を表すことができます。前項のように「所…」だけで「…されるもの」という意味になるので、「…されるものになる」ということで「…される」という受身になるわけです。
     動作主は「所」の直前におかれますが、動作主と「所…」との関係、つまり上例1でいえば「人」と「所制」との関係は主語述語の関係ではありません。「所制」はもう名詞扱いなので、名詞と名詞の関係、つまり修飾関係になります。名詞が名詞を修飾する場合はその間に「之」を入れることができます(→