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文法-使役



  1. 文脈による使役
    1.死諸葛走生仲達 sǐ Zhūgě zǒu shēng Zhòngdá
     死せる諸葛 生ける仲達を走らす
     [訳]死んだ諸葛亮(孔明)が、生きている仲達(司馬懿)を敗走させた
    2.夫人蕩船而懼公 fūrén dàng chuán ér jù gōng
     夫人船を蕩[ゆる]がして公を懼[おそ]れしむ
     [訳]夫人は船を揺らせて乗っている公をこわがらせた
    3.命故人書之 mìng gùrén shū zhī
     故人に命じて之を書[しよ]せしむ
     [訳]親友に命じてこれらを書き写させた

     受身が「何もなくても文脈から受身」というのが基本だったなら、やはり使役も「何もなくても文脈から使役」というのが基本です。
     というより、状態や性質を表す述語と受身との境界が不分明だったように、他動詞と使役との境界も不分明なところがあります。たとえば「走る」というのは自動詞ですが、これに人を表す目的語をつけて他動詞的に扱えば「その人を走らせる」ということになり、多くの言語では使役表現を用いるべきところになります。
     上例1はまさにそのようなものであり、これを使役ととるか他動詞ととるかは不分明といえましょう。実際にこれを使役で表現するかどうかは日本語でもゆれています。現代日本語では「走らせる」(動詞+使役の助動詞)とは別に「走らす」という五段活用の他動詞もあります。早い話が「ない」をつければ、「走らせない」とも「走らさない」とも言えるわけです。文法的には前者なら使役ですが後者ならただの他動詞ということになりますが、特に意味の違いはなさそうです。そんなわけで上例1の訓読も使役ではなく「走らす」という他動詞で読んでいますが、内容的には使役ということになります。
     上例2はもう少し使役らしい例です。日本語でも「恐れさせる」「怖がらせる」という使役表現しかなく、相当する他動詞はありません。もっとも英語ならfrightenとかterrifyという他動詞で表現できるでしょうから、やはり他動詞と使役との境界は不分明といえます。
     ともあれ、このようにある種の他動詞を、日本語では使役を用いて表現すべきものと判断した場合、訓読では「しむ」を補って読みます。そこで上例2を訓読するときは「恐れしむ」となるわけです。文語の使役の助動詞には「す/さす」と「しむ」とがありますが、漢文訓読では「しむ」しか用いられません(だから上例1の「走らす」は、文語では動詞「走る」+使役助動詞「す」ともとれますが、やはり他動詞「走らす」と解釈します)。
     文脈から使役になるという場合のほとんどは、直前の述語動詞の意味に影響されるというものです。上例2のように「蕩船」であれば必ずしも次が使役になるとはいいきれませんが、上例3のように「命」であれば、ほぼ確実に次が使役になるといえるでしょう。このように次が使役になりやすい動詞には「説 shuō・召 zhào・舉 jǔ・敎 jiào・遣 qiǎn・招 zhāo・勸 quàn」などがあります(「敎」の発音については次項参照)。
     上例3のように「而」などの接続詞がなく直接に述語動詞句が接続する場合、前半の目的語が後半の主語になっているといえます。つまり「命故人書之」は「命故人(親友に命じる)+故人書之(親友がそれらを書き写す)」であり、重複している「故人」を1つにまとめた形といえます。このような構文を兼語文(→文法-五文型-兼語文)といいます。次の「助字と兼語文による使役」で述べるとおり、使役表現は兼語文になるという一大特徴があるので、上例3は「文脈による使役」ではありますがほとんど「使役専用表現」ともいえます。



  2. 助字と兼語文による使役
    1.天帝使我長百獸 tiāndì shǐ wǒ zhǎng bǎishòu
     天帝我をして百獸に長たらしむ
     [訳]天帝は私をすべての獣の長としています
    2.若敎韓信反何也 ruò jiāo Hán Xìn fǎn hé yě
     若[なんぢ]韓信をして反せしめしは何ぞや
     [訳]お前が韓信を離反させたのはどうしてか
    3.玉人何処敎吹簫 yùrén héchù jiào chuī xiāo
     玉人何処[いづく]にか簫[せう]を吹かしめらるる
     [訳]美しいあの子は今頃いったいどこで簫を吹かせられているのだろうか
    4.無令出境 wú lìng chū jìng
     境を出でしむる無かれ
     [訳]国境から出してはならない
    5.坐之堂下、賜僕妾之食 zuò zhī táng xià, cì púqiè zhī shí
     之を堂下に坐せしめ、僕妾の食を賜ふ
     [訳]彼を建物の下に座らせて、使用人用の食事を与えた

     使役表現の一般形は、「使役助字+人+動作」というものです。使役助字は「使 shǐ・令 lìng・敎 jiāo・遣 qiǎn・俾 bǐ」などがあります。次に「誰にさせるのか」が来て、次に「何をさせるのか」が来ます。
     この形は前項3の「命故人書之」とほとんど変わりません。前項では人の前の動詞が「命ずる」という意味を持っていたのに対し、こちらの「使」などの使役助字はそういう意味を持たず、単なる使役の機能を表すのみというのが違いです。
     しかしこれはなかなか微妙です。というのはこれらの使役助字だってもともとは「使う・命令する・教える・派遣する・助ける」という意味をもつ動詞であったからです。一番早くから使役助字として用いられるようになったのは「使」、ついで「令」(論語ではまだ用いられておりません)、その後に「敎」などが使役助字として用いられるようになりましたが、これらの使役助字を用いた文であっても、原義が残っているのではないかと思わせるものがあります。上例2はその典型であり、「韓信を教唆して離反させた」と解釈すれば、「敎」の原義が残っていることになります。このように使役助字を原義どおりに解釈できる場合には、できる限り原義で解釈するのがよいのかもしれません。
     いずれにせよ音読の場合はそのまま発音すればよいのですが、「敎」だけは問題があります。この字は原義の場合にはjiào(去声)、使役助字の場合はjiāo(平声)と読むことになっています。しかし原義のままでも使役文になりうるわけですし、使役助字だとしても原義が残っていると解釈しうる余地があったりするのですから、この読みわけは必ずしもあてになりません。音注があったり、詩中の用例であったり(平仄の法則でわかります)して発音がハッキリわかる場合であっても、「ここは去声だから使役じゃないな」などという即断は禁物です。せいぜい「そういう音注がないものを自分で読むときは、原義ならjiào、使役助字ならjiāoと読むことにしよう」というくらいにとらえてください。
     その例が上例3です。これは杜牧の『寄揚州韓綽判官』の結句ですが、末尾2字「吹簫」がどちらも平声なので、末尾3字が同じ平仄であってはならないという規則によって「敎」は仄声つまり去声jiàoということになります。そこで日本の解説書の多くは「あの美人はどこで吹簫を教えているのだろうか」式に訳していたりします。しかしここで「玉人」は芸妓のことなので、客に簫の吹き方を教えるはずもありません。客の前で簫を吹かせられていると解釈すべきで、「敎」は使役助字(もっともさらに受身の意味を補わねばなりませんが)ということになります。このようにjiàoと読んでも使役助字かもしれないので即断は禁物です。
     さて、使役文は「使役助字+人+動作」だったわけですが、今まで長々と述べたように使役助字はもともと動詞です。とすると使役助字の次の人は、使役助字という名の動詞の目的語になります。さらに「人」と「動作」の関係だけを取り出せば主語述語の関係になっています。つまり使役文は「使役助字+人」「人+動作」を合体させ、重複している「人」をまとめてしまったわけであり、こういう構文を兼語文と言います(→文法-五文型-兼語文)。
     ところが使役助字を用いた使役文ではなんでもかんでも兼語文になっているとは限りません。この兼語(目的語兼主語)である「人」を省略してしまっているケースがけっこう多いのです。上例3がすでにそうでしたが、上例4も同様で「彼を」のようなものが省略されているわけです。同じ兼語文でも「有」を用いたものでは兼語を省略することはないので、使役文の特徴といえます。
     訓読では使役助字を「しむ」と読むだけでなく、兼語(人)のあとに「をして」を送ります。原文には標識がないので忘れがちになります。注意してください。
     ただし「をして」を送るのは兼語文になっている場合に限られます。上例5は前項同様「文脈による使役」の例ですが、「之をして堂下に坐らしめ」と読んではいけません(そう読む流儀もあるかもしれませんが一般的ではありません)。「坐之堂下」という語順によく注意してください。もし使役助字を用いるなら「使之坐堂下」となるはずです。つまり上例5は単なる使役助字の省略ではなく、構造が違うのです。「之」が兼語でなくただの目的語になっているので、通常はこういうときは「をして」とは読みません。