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口上



  1. 白文を読むために
     今の日本の中学・高校では英語・数学・国語を主要3教科と呼んでいますが、戦前、旧制の中学では英語・数学・国語・漢文が主要4教科でした。漢文は国語とは独立した教科だったんですね。読解はもとより、復文(書き下し文から原文を復元)や作文もやるし、これだけ高度な学習内容でしたから、白文の読解もなんのそのでした。
     しかし戦後、漢文は国語の一部である古典分野の、そのまた片隅に追いやられてしまいました。漢文の得意な教師は少なく、漢文に興味を持つ生徒も少なく、おまけに最近は大学入試科目から漢文が消えつつあるので、みんないやいやながら学んでいます。内容もたいしたことはなく、学者先生が返り点と送り仮名をつけた文章をえっちらおっちら読む程度です。
     大学の国文科はというと、日本語ではない漢文は国文の領域ではないといわんばかりに冷遇し、日本人の書いた漢文学を専攻する人は非常に少ないのが実情です。国語の教員免許を取るのに必要なので「漢文学」の授業はありますが、教科書をみるとたいしたことはやっていません。高校の漢文にちょっと毛が生えた程度、やはり他人が返り点と送り仮名をつけた文章を読んでお茶を濁しているところがほとんどです。まぁ、中学・高校の国語の先生を養成するだけならそれでいいのかもしれません。
     いっぽう、中国文学科など中国を専攻する課程で漢文をしっかりやっているのかというと、現代中国語の授業はしっかりやりますが、古典を読む授業をほとんどやりません。だから学生も、どうやって漢文を読んでいいかよくわかっていません。訓読を馬鹿にしているので一応アリバイとして現代北京音で漢文を読むものの、それが読解に結びついておらず、実は頭の中ではこっそり訓読めいた方法で読み取っています。
     しかし、中国や日本の古典文学、史学などを専攻する人など、本気で漢文が必要になる人にとっては、これでは困るのではないでしょうか。漢文で書かれた現実のテキストは送り仮名や返り点はおろか、句読点すらついていないものがほとんどです。そういう白文を読む訓練の場がどこにもないので、みんな見よう見まねで悪戦苦闘しているというのが現状ではないでしょうか。
     高校や大学教養の「漢文もどき」に飽き足らず、次のステップへ進みたいあなたのために、本格的に漢文が読めるようになるための道場を開設しました。



  2. 論語をネタに
     この「漢文入門」では、最初に簡単に文法をおさらいしたあと、『論語』Lúnyǔ を読んでいくことにします。それ以外のものは読みません。本当は私は『論語』なんか好きではないのですが、あえて『論語』を読むのには理由があります。
    1. みんなが一応知っている古典……白文を読む作業ではまず、固有名詞や専門用語を洗い出すことが必要です。でないと「胡毋敬」(*)という人名を「なんぞ敬ふことなからん」なんて読んでしまいます。だからまずは情報収集が必要なのです。これから読む本にはどういうことがどういうふうに書かれているのか、どういう人名や地名や用語が出てくるのか。現代の通訳だって、たとえば映画監督へのインタビューをする前には作品や俳優や専門用語をみっちり予習します。でないとそういう語を聞き取ることができません。人間は全く未知なるものを理解することはできないのです。
      (*)念のため。この人は秦Qín ・始皇帝 Shǐhuángdì 時の太史令で、『博学篇 Bóxuépiān 』という識字用教科書を作ったといわれています。本当は胡母敬 Húmǔ Jìng なのですが、実際のテキストではけっこう胡毋敬と書かれています。
       このためには分野に即したテキストで勉強しなければなりません。日本史をやるのに中国の文学作品を読んでも無意味です。だから白文を読む訓練は各分野で「当たって砕けろ」式にやってきたわけです。
       しかしどんな分野にせよ漢文自体は同じ文法なのですから、なんとかして白文を読む訓練をする共通の場を作りたいものです。そこでどんな分野にも共通しそうな教材として『論語』を選んだのです。『論語』は中国文化圏共通の古典であり、他分野の人も知っていて損はありません。なにより中学・高校のお粗末な漢文教育でも『論語』くらいは何らかの形でやっていてなじみがあるはずです。
    2. 標準的な漢文の文体……会話を中心としている『論語』には昔の口語の要素がちょっぴり入っているのか、他のテキストにくらべて助字類が多く、文法の練習になります。なにより『論語』は漢文の代表的な古典ですから、『論語』の文体こそが漢文の標準といえるわけです。
    3. 註にしたがって読む訓練……『論語』は断片的な文の羅列です。文が短いと読みやすいと思いきや、実は逆で、前後の文脈や背景がわからなくて解釈がゆれている文がいくつもあります。そこで註を頼りにしないと読めないわけですが、「註を頼りに読む」ことは古典読解の基本です。そういう訓練に最適といえます。



  3. このコンテンツが役立つ人、役立たない人
     この「漢文入門」では、次の方法論で明らかにするように、音読と訓読を併用します。ですから、どちらか一方しかやる気のない人には向きません。
     具体的には、日本語を母語としない人は訓読をする必要はないので向きませんし、単に大学入試のために漢文を勉強するのであり中国語を勉強しているわけではない高校生にも向かないでしょう。特にいまの高校生は、すでに訓点をほどこした漢文が読めればいいのであって、白文を読む能力は必要ありません。この「漢文入門」は白文を読むための技術を詳しく説明しているところがあるので、白文を読む必要のない高校生には余計な説明が多すぎると思います。
     しかし、訓読のみの漢文読解に物足りなさや限界を感じている人、現代中国語の勉強だけでは漢文は読めないと感じている人には役に立つのではないかと思います。また、高校生には役に立ちませんが高校生を教える先生方には役立つかもしれません。



  4. 表記について
    1. 「漢文入門」で出てくる漢文は、原文・中国語発音・書き下し文・口語訳を併記します。それぞれの間はスペースを入れるのみで列挙し、カッコなどの記号は用いませんが訳の前には[訳]という記号をつけました。
    2. 同じ文や語を近接して何度もあげる場合や、書き下し文と口語訳が非常に似ている場合などは、発音以下を適宜省略したところがあります。
    3. 原文は原則として旧字体のみとし、大陸の簡体字や日本の新字体は用いません。「从[したが]ふ」などのようにたまたま大陸の簡体字と共通の字体が出てくる場合も、それはもともとから「从」だったのであり、「從」を書き換えたわけではありません。
    4. 原文には句読点を打たないか、打つ場合も、。「」のみにしました。
    5. 中国語発音は北京語・新華字典所載発音でピンイン表記です。文語音がある文字でも文語音を用いていない場合があります。たとえば「白 bái」は文語ではbóですが、原則báiと表記しています(そもそも新華字典にbóが載っていません)。
    6. ピンインは文頭も小文字で始め、固有名詞のみ語頭に大文字を用いました。多音節語などで語内の分かち書きを省略したところがあります。
    7. 書き下し文は旧字体・旧仮名遣いです。
    8. 書き下し文の漢字にフリガナをふるばあいは、「振[ふ]り仮名[がな]」のように[ ]囲みにしました。語の区切りを明示するために読みやすい字にも「雲[くも]飛揚す」のように意図的に振り仮名をふったところがあります。
    9. 書き下し文および口語訳で、あってもなくてもいい語句は「見る(こと)無し」のように( )囲みで表記しました。
    10. 書き下し文および口語訳で、直前語句の別な表現を併記する場合は「両方は生きない(=どちらかが死ぬ)」のように(= )囲みで表記しました。