[ホーム漢文入門]

文法-五文型



  1. 漢文も五文型!?
     他人が訓点をつけたものを読むだけの高校漢文ならばこの部分は簡単に流していいのですが、白文を読むためには文型の知識こそが一番重要かもしれません。
     なお、前ページ末尾の「文法-複音節語(熟語)の構造」と共通する話が多いので、読み飛ばした人は一度前ページを読んでからこのページに戻ってきてください。

     英語では五文型ということがよく云われます。
    1. 第1文型。SV……主語+動詞
    2. 第2文型。SVC……主語+動詞+補語
    3. 第3文型。SVO……主語+動詞+目的語
    4. 第4文型。SVOO……主語+動詞+間接目的語+直接目的語
    5. 第5文型。SVOC……主語+動詞+目的語+補語
     つまり、まずは動詞に着目します。動詞の前は主語です。そして動詞のあとに何もないのか、補語や目的語が来るのか、来るとすればそれは1つか2つか、という区別によって文型を五つに分類していくわけです。
     さて、漢文の語順は9割方英語と同じですから、漢文でも五文型という分類をやろうと思えばできます。もっとも漢文の場合、目的語と補語との区別がありませんので上記2と3、4と5をまとめることができ、これで三文型。ですがせっかく五文型という言い方が英文法で定着しているので、英語にはない漢文特有の文型を2つ追加して、むりやり5つにまとめてしまいましょう。すなわち
    1. 主語+述語
    2. 主語+述語+目的語
    3. (目的語+)述語+主語のように思えるもの
    4. 主語+述語+目的語+目的語
    5. 述語が複数ある文(連動文兼語文)
     実質的には1と2と4だけでもいいのですが、3と5を追加して五文型にしてみました。
     後述のように漢文では動詞ばかりか形容詞も名詞も述語になることができるので「動詞」ではなく「述語」という言い方にしました。
     白文を読むコツは、まず述語がどこなのかを見破ることです。次に、述語の次に目的語があるかないか、あるとすれば1つなのか2つなのかを見破ります。そうすれば文の終わりを判断でき、句読点を打つ位置がわかるというわけです。



  2. 主語+述語
    1.王喜 wǎng xī 王喜ぶ
     [訳]王は喜んだ。
    2.國破山河在 guó pò shānhé zài 國破れて山河在り
     [訳]国都は破壊されたが山や河はそのまま残っている。
    3.山高水深 shān gāo shuǐ shēn 山高く水深し
     [訳]山は高いし川は深い(旅路が困難なこと)。
    4.國治 guó zhì 國治まる
     [訳]国は安定している
    5.農天下之本 nóng tiānxià zhī běn 農は天下の本[もと]なり
     [訳]農業は国の基本である
    6.王勃字子安太原人 Wáng Bó, zì Zǐ'ān, Tàiyuán rén.  王勃[わうぼつ]、字[あざな]は子安[しあん]、太原[たいげん]の人なり
     [訳]王勃は字(=実名以外の呼び名)は子安であり、太原の出身である。

     英語の第1文型にあたる、「主語+述語」構造の文です。
     英語では形容詞や名詞はそのまま述語になることはできず、be動詞などが必要になります。現代中国語では形容詞はそのまま述語になりますが、名詞はさすがにダメで、「是 shì 」などが必要になります。これらに対して漢文では形容詞も名詞も平気で述語になります。上の1と2では動詞が、3と4では形容詞が、5と6では名詞が述語になっています。
     ただし訓読では漢文の品詞どおりに読めるとは限りません。4は漢文としては形容詞なのですが、日本語では形容詞に読みにくいのでやむを得ず「治まる」のように動詞として読んでいます。こういうこともいろいろあるので注意すべきです。
     名詞が述語になった場合にはそのままでは落ち着きが悪いので5のように「なり」を送ります。もっとも、まだ次に別の文が続くのなら別で、6の「子安」のところのように何も送らなくて結構です。送るなら「にして」でしょうが、やっぱりヘンです。

     訓読では主語のあとに何もつけません。5では「は」を送っていますが必須ではありません。「は」は日本語文語文法では対比・強調などの係助詞ということになっているので、主語を強調したり、他と対比したりするときに「は」を送ることが多いようです。たとえば3は、「山高」と「水深」がどちらも旅路のけわしいさまを言っているので対比になっていませんが、「山高路平(lù píng)」(山は高いけれども道は平坦だ)ならば「山高」と「路平」が対比になっているので「山は高きも路は平らかなり」のように読んだほうがいいかもしれません。
     いま、主語のあとに何もつけないと書きましたが、「主語+述語」構造を持ったものがさらに大きな文の一部になっているときは、主語のあとに「の」を送るのが普通です。たとえば、「國治」だけなら「國治まる」であり、「國」のあとには何もつけないのですが、「國治難」とか「見國治」ならば、「國治まること難し」、「國治まるを見る」のように、「の」を送るというわけです。

     2や3のように文が2つ以上続く場合、もちろん「山高。水深」(山高し。水深し)でもいいわけです。しかしこれではさすがに区切りすぎ。かえって全体構造がわかりにくくなります。たとえば2は五言律詩(5字×8という構造の詩)の一節ですから、切ると5字句であることがわからなくなってしまいます。ですからこういうときには「山高、水深。」のように「、」ということにしますし、状況によっては「、」すら打たなかったりします。このように漢文では「。」と「、」の境界は不明確で、だからこそ昔の本では一律に「。」だったり一律に「、」だったり、そもそも打たなかったりしたわけです。
     訓読では文が続く場合は「山高水深し」のように連用形にします。しかし2の「國破れて山河在り」のように「て」を入れてもいいわけです。「て」とあるから順接かというとそうでもなく、訳を見てもらえばわかるように逆接です。逆接であることを明示したければ「破るも」「破るれども」などのほうがいいかもしれませんが、逆に「て」だけでもいいし、「國破れ山河在り」のように何もなくてもいいわけです。このあたりは訓読する人のさじ加減次第です。

     2は「國破」と「山河在」を、3は「山高」と「水深」をそのままつなげていますが、もちろん漢文にも接続詞があるので接続詞を使ってもかまいません。いちばんよく使われる接続詞は「而 ér 」で、順接だろうが逆接だろうがおかまいなく、単純に前後をつなげるはたらきをします。だから2は「國破而山河在」と言ってもいいわけです。一息で読めなければ「國破、而山河在」のように「而」の前で区切ります。
     音読ではこのように区切ればいいのですが、訓読ではどうでしょうか。やはり「國破れて山河在り」と読みます。これは「而」のところで「て」と読んでいるわけではありません。「而」がなくても全く同じように読んだわけですから、「而」を読んでいないことになります。訓読ではこのように原文の文字を読まないことがあり、読まない文字のことを「置字(おきじ)」といいます。置字についてはあとで詳しくまとめます。

     6では「王勃」「字」というところが主語が二つになっています。こういうのは文法学的にはいろいろ解釈があるようですが、日本語で「象は鼻が長い」のように普通にいえるように、漢文でもそういうふうに言えるのだ、という程度にとどめておきます。
     漢文には時制がありません。現在も過去も未来も同じです。1は「王は喜んだ」と訳しておきましたが、ひょっとしたら「王は喜んでいる」かもしれないし「王は喜ぶだろう」かもしれません。そこで訓読でも原則として時制は明示しませんが、時制を明示する必要がある場合は、過去は「き」「たり」「り」、未来は「ん」で表現します。たとえば「王喜べリ」「王喜ばん」などのようにです。なお、訓読で時制を明示していないからといって口語訳でも時制を明示しなくていいわけではなく、文脈から判断してはっきり時制を明示するべきなのはいうまでもありません。
     さらに漢文には法もありません。命令だろうと仮定だろうと全く語形変化をしません。1はひょっとしたら命令文で「王よ喜べ」かもしれません。そういうときは訓読も命令形にします。仮定のときにどうするかは、文法-仮定で述べます。



  3. 主語+述語+目的語
    1.入室見妻 rù shì jiàn qī 室に入りて妻を見る
     [訳]部屋に入って妻を見る。
    2.工書善畫 gōng shū shàn huà 書に工[たくみ]にして畫[ぐわ]を善くす
     [訳]書道がうまく絵も得意である。
    3.出東門 chū dōngmén 東門より出づ
     [訳]東口から出る。
    4.謝病 xiè bìng 病[やまひ]と謝す
     [訳]病気だといって断る。
    5.我爲趙將 wǒ wéi Zhào jiàng 我趙の將たり [訳]私は趙の将軍である。

     英語の第2文型および第3文型にあたります。英語同様に「~を」「~に」「~で(ある)」などといった目的語・補語の類は、「主語+述語」構造のあとに来ます。上述のように、漢文では英語のような目的語と補語の区別がありませんので、以下では、「主語+述語」構造のあとに来るものを、一律に「目的語」といいます。
     訓読の場合、日本語は語順が異なるので、「述語+目的語」の部分を目的語から述語に向かって読むことになります。よって「入室見妻」のように目的語から述語に返るような返り点をつけることになります。
     さらに訓読の場合は、目的語の送り仮名を省略できません。主語のあとには何も送らないのが原則ですが、目的語のあとには必ず「を」「に」「と」「より」のうちのどれかを送ります。
     逆に白文を読んでいくときは、「を」「に」「と」「より」という送り仮名がつけられるものがあったら、そこは目的語なのでそこから上の動詞に返って読むという合図になるので、昔から「鬼と(=ヲ・ニ・ト)逢うたら返れ」などという語呂合わせで覚えたものです。
     どの送り仮名を送るかは日本語の問題なので、日本語訳を頼りに考えればだいたいOKですが、2の「工書」のように現代日本語訳からは推測がつかない場合もあります。一般的には、 というふうになっているようです。
     5の「爲」は、「~である」という意味のときは「たり」と訓読します。日本語では「たり」は断定の助動詞であり直前の名詞に直接接続するので、このときは目的語に送り仮名がつきません。



  4. (目的語+)述語+主語のように思えるもの
    1.容貌有飢色 róngmào yǒu jīsè 容貌に飢色有り
     [訳]外見には飢えている様子がある。
    2.曠無人居亦無稲田蔬圃 kuàng wú rénjū yì wú dàotián shūpǔ 曠[くわう]として人居無く亦[また]稲田[たうでん]蔬圃[そほ]無し
     [訳]殺風景で人家もなければ水田も野菜畑もない。
    3.世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。
    shì yǒu bólè, ránhòu yǒu qiānlǐmǎ. qiānlǐmǎ cháng yǒu, ér bólè bù cháng yǒu.
    世に伯楽有り、然る後に千里馬有り。千里馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
    [訳]世の中には馬を見分ける名人がいてこそ、一日に千里を走る名馬が存在するのである。そういう名馬は常に存在するのだが、馬を見分ける名人はいつもいるわけではない。

     前ページの「文法-複音節語(熟語)の構造」の「述語+主語」で述べたように、中国語は「既知情報が先、未知情報が後」というのが大原則です。一般の文は「既知である主語について、性質や動作といった未知情報を伝える」という構造になるので、それで「主語+述語」という順番になるのです。ところが「~がある」「~がない」といった内容の文では、「~」の部分こそが未知情報になります。そこで1や2のように「有」「無」のほうが先に来て、「~」の部分が後に来るわけです。
     現代中国語の文法学では機械的に動詞のあとに来るものを目的語、動詞の前に来るものを主語とするのが普通なので、このような場合でも「主語+述語+目的語」ということになってしまいますが、意味を考えれば、「述語+主語」のように見える構文です。
     訓読では「~」のあとには何もつけません。
     「有」「無」のほか、「多」「少」でこの構文が用いられます。
     現代中国語ではこの手の構文を「存現文」と呼び、「下雨了」(雨が降ってきた)などのようにいろいろな動詞で用いますが、漢文では「有」「無」「多」「少」以外にはめったに見かけません。せいぜい「天大雨雪 tiān dà yù xuě」(天大いに雪[ゆき]雨[ふ]る。[訳]たいそう雪が降る)ぐらいなものです。
     なお、「有」「無」「多」「少」であっても、「ある・ない・多い・少ない」ということこそが未知情報になる場合があり、その場合には通常の語順になります。たとえば3がそのよい例です。3の前半は「伯楽」だの「千里馬」だのが未知情報なので後に来ていますが、後半では「伯楽」や「千里馬」はもう既知情報であり、それがいるかどうかが未知情報になるので、通常の「主語+述語」という語順になっています。



  5. 主語+述語+目的語+目的語
    1.堯讓舜天下 yáo ráng shùn tiānxià 堯舜に天下を讓る
     [訳]堯(君主名)は舜(君主名)に天下を讓った。
    2.逢蒙學羿射 Féngméng xué Yì shè 逢蒙[ほうもう]は射を羿[げい]に學ぶ
     [訳]逢蒙は弓を羿から学んだ。
    3.徳勝才謂之君子 dé shèng cái wèi zhī jūnzǐ 徳の才に勝る、之を君子と謂ふ
     [訳]人徳が才能に勝っている人のことを君子という。
    4.堯讓天下於舜 yáo ráng tiānxià yú shùn 堯天下を舜に讓る
     [訳]堯(人名)は天下を舜(人名)に讓った。
    5.景公問政孔子 Jǐnggōng wèn zhèng Kǒngzǐ 景公は政を孔子に問ふ
     [訳]景公(人名)は孔子(人名)に政治について質問した。
    6.責人於全 zé rén yú quán 人に全[まつた]きを責む
     [訳]人に完全さを求める。
    7.乘舟江湖 chéng zhōu jiānghú 舟に江湖に乘る
     [訳]川や湖で舟に乗る。
    8.讀弟子書 dú dìzǐ shū 弟子に書を讀ましむ [訳]弟子に書物を読ませる。

     英語の第4文型および第5文型にあたる、目的語が2つある文です。目的語を2つとる述語というのはおおむね「与える」「授ける」などの授与関係(1)か、「教える」「示す」「問う」などの質問・教示関係(2)、それから「~を~という」という命名・定義関係(3)の3種類に分類できます。
     2つの目的語の順は入れ換えることもできます。たとえば1は4のように書き換えることができます。その場合「~に」にあたるほうには「於」などの介詞(=前置詞)を用いることが多いです。1と4の関係をみると、ちょうど英語のGive me money. → Give money to me. のような第4文型→第3文型の書き換えに際して前置詞が必要になるというのと非常に似ているので興味深いものがありますが、漢文の場合「於」のような介詞が必ずしもいるわけではなく(5)、さらには入れ替わっているような場合(6)もあるのでしっかり意味を見極めることです。
     訓読の場合、それぞれの目的語の送り仮名は「主語+述語+目的語」のところで述べた原則にしたがってそれぞれ判断します。7のようにどちらも「に」になってしまうなど現代日本語からするとヘンな感じに聞こえる場合もありますが、「舟に乘る」「江湖に乘る」のようにそれぞれ判断して「に」となったものを単に組み合わせればよいので、両方同じ「に」になってしまったからといって気にすることはありません。  なお、訓読では「於」という字を読みません。この件についてはこのページの下の「置字」を参照してください。
     8のように使役文でも二つの目的語をもった文がでてきます。詳しくは文法-使役を参照のこと。
    わき道にそれますが「弟子」はこの場合「門人」という意味だと思うので「でし」と読んでかまいませんが、漢文では「弟や子」つまり年少者という意味でこの語を使うことも多く、その場合は「門人」という意味じゃないぞという注意を喚起するため「ていし」と読んだりします。



  6. 述語が複数ある文・1 連動文
    樂正子春下堂而傷其足數月不出猶有憂色
    Yuèzhèng Zǐchūn xià táng ér shāng qí zǔ shù yuè bù chū yóu yǒu yōusè.
    樂正子春堂より下りて其の足を傷つけ數月出でず猶憂色有り。
    [訳]樂正子春(人名。「樂正」が姓)は表座敷から下りるときに足を傷つけ、数ヵ月外出せず、まだ憔悴した様子であった。

     以上、五文型のうちの4つをやってきましたが、漢文ではどこが述語であるかを見極めるのが大事です。あとは述語の前後の要素が何であるかを見極めます。述語の前にはたいてい主語があり、述語のあとには目的語があるというわけです。
     しかし述語の前には必ず主語があるとは限りません。「~して…して-して=なった」というふうに同じ主語に関していくつも述語を並べる場合、2番目以降の述語の前の主語はまず例外なく省略されます。すると、一つの主語に対していくつも述語が並ぶ文ができあがります。こういうのを現代中国語の文法では「連動文」と言います。
     上の例では「樂正子春」という1つの主語に対して「下」「傷」「出」「有」という4つの述語が並んでいます。
     とはいえこの事情は日本語も同じことなので、連動式といってもそう難しく考える必要はありません。主語は省略されることが多い、ということだけ気をつけておけば十分です。
     述語は時間の順序に従っているので、でたらめな順序で訳してはならず、必ずこの順番で訳さねばなりません。上の例では「足を傷つけて表座敷から下りた」などとしてはいけないわけです。もっとも順序さえ守れば「表座敷から下りて足を傷つけて」などのように「て」のみでつなげて訳す必要はなく、上の訳文のように文意を考えて適宜いろいろな語を用いてつなげていくほうがいいです。
     訓読では上の例のように「て」でつなげたり(堂より下り」、単なる連用形でつなげたり(其の足を傷つ)と一定しておりませんが、これは語呂の問題です。全部「て」を用いてもいっこうにかまいません。もちろん順接とは限らず逆接だってありうるわけですから、「も」「ども」などでつなぐこともありえます。
     ただし「而」の前では連用形のみは許されず、必ず「て」「も」「ども」などの接続助詞を用いる必要があります。そして「而」自体は読みません。こういう字を置字といいます。置字については下でまとめます。
     また、時制のない漢文では訓読でも特に時制を表す語をつける必要はありませんが、どうしても必要であれば、過去は「き」「たり」「り」、未来は「ん」をつけます。で、こういう連動式文では一番最後に用います。たとえば「猶憂色有りき」のように。途中に用いるのはヘンです。



  7. 述語が複数ある文・2 兼語文
    1.有朋自遠方來 yǒu péng zì yuǎnfāng lái 朋[とも]の遠方より來[きた]る有り
    [訳]ある友達が遠方からやってきた。
    2.使弟子讀書 shǐ dìzǐ dú shū 弟子をして書を讀ましむ [訳]弟子に書物を読ませる。

     述語が複数ある文には連動文のほか兼語文というものがあります。兼語文というのは、「A述語B」「B述語C」という2つの文を合体させてできた、「A述語B述語C」のような構造をとる文です。
     兼語文には「有を用いる文」と使役文の2種類があります。
     まずは「有を用いる文」。上の1は、「有朋」(友人がいる)という文と「朋自遠方來」(友人が遠方から来る)という2つの文が合体してできたものです。この場合、「有」は「存在する」という意味を失い、上の訳のように「ある友人が~」といういわば不定の意味になります。日本語では「~がある」も「ある~」も同じ「ある」なのでまぎらわしいかもしれませんが、なあに、「ある~」という言い方はもともとの日本語にはなく、漢文のこの形を訓読する過程でできた言い方なのです。
     「有AB」の訓読は、上記のように「AのB(する)あり」という形のほか、「AありB」という形もあります。ですから上記1は「朋有り遠方より來(きた)る」という読み方もあります。ただしこの場合、「友達がいて~」のように訳さないこと。やはり「ある友達が~」と訳します。
     兼語文のもう一つの形は使役文です。2は上記「主語+述語+目的語+目的語」の8とほぼ同じ文です。これは「使弟子」(弟子に命令する)、「弟子讀書」(弟子が書物を読む)の2つが合体してできたものです。やはり詳しくは文法-使役を参照のこと。
     また、主として後代の語法になりますが、受身文にも兼語文が存在します(→文法-受身)



  8. 修飾語句
    1.見白雁群 jiàn bái yàn qún 白き雁の群を見る [訳]白い雁の群を見る
    2.日本國人多嗜食鰻 Rìbǎnguó rén duō shì shí mán 日本國の人多く鰻を嗜み食ふ
     [訳]日本國の人々は鰻を好んで食べる人が多い。
    3.與等輩避雨樹下 yǔ děngbèi bì yǔ shù xià 等輩と雨を樹下に避く
     [訳]仲間と木の下で雨宿りする。
    4.朔欺久矣 Shuò qī jiǔ yǐ 朔(人名)欺くこと久し [訳]朔は長いことだましていた。
    5.昭王病甚 Zhāowáng bìng shèn 昭王(王名)病[やまひ]甚[はなはだ]し
     [訳]昭王はひどい病気である。
    6.民生長于齊不盗 mín shēngzhǎng yú Qí bú dào 民齊に生長すれば盗まず
     [訳]民は斉国に生まれ育つと盗みをしない。

     文は主語・述語・目的語だけでも成立しますが、より詳しい情報を表現するために、それぞれに修飾語句がつくことが多いです。
     修飾語句は一般に被修飾語句の前につきます。たとえば1の「白」は次の「雁」を、そして「白雁」がひとまとまりになって次の「群」を修飾しています。2では「日本國」が「人」を、「多」が「嗜」を修飾しています。
     訓読では通常次のように読みます。  以上が原則ですが、語句によってはこれ以外の工夫をすることがあります。たとえば「一言寤意 yì yán wù yì」(一言で意図を理解させた)は、「一言にて意を寤(さと)す」でもいいのですが「一言もて意を寤(さと)す」などと読んだりもします。このあたりは読み手の文語日本語のセンスが求められるところです。
     漢文では英語同様にさまざまな前置詞があります。中国語の文法用語では介詞というのが普通です。前置詞というくらいですから英語同様に語句の前に用いられるのですが、前置詞のついた語句自体も述語の前に来る点が英語と違います。たとえば3の「与等輩」は「避」という述語の前に来ています。
     なお、「於+場所」は目的語扱いになり、述語のあとに来ます。

     以上、漢文では修飾語句は被修飾語句の前に来るのが大原則なのですが、述語の数量や程度を表す補語が述語の直後に来る場合があります。
     4の「久」は後ろから「欺」を修飾しています。特に数量を表すものはこの順序になることが多く、「治天下五年 zhì tiānxià wǔ nián 天下を治むること五年」(天下を五年治めた)などといったりします。
     訳からもわかるとおり日本語とは語順が違いますが、訓読では返って読むことはせず、「こと」を入れてつなげます。5のように述語が名詞として読める場合は、まるで「象は鼻が長い」式にそのままつなげてごまかしてしまいます。
     また述語の中には、述語の結果や方向を表す語句が直後に続くものがあります。6の「生」と「長」の関係は、「生まれて成長する」つまり「生まれた結果成長する」です。訓読の場合は6のように2文字の述語として処理してしまいます。「于」に関しては後の「置字」を参照のこと。



  9. 「自」について
    1.知人者智、自知者明 zhī rén zhě zhì, zì zhī zhě míng.
     人を知る者は智にして、自ら(を)知る者は明なり。  [訳]他人を知ることのできる者は智慧があり、自分を知ることができる者は聡明である。
    2.分財利多自與 fēn cáilì duō zì yǔ 財利を分かつに多く自ら(に)與ふ
     [訳]財産を分けるのに自分のほうに多くわけた。
    3.君王自爲之 jūnwáng zì wéi zhī 君王自[みづか]ら之を爲[な]せ
     [訳]王さまは自分でこれをおやりなさいませ。
    4.桃李不言下自成蹊 táo lǐ bù yán xià zì chéng xī
     桃李[たうり]言はざれど下[した]自[おのづか]ら蹊[みち]を成す
     [訳]桃やスモモはものを言わないが、人々がそれを目当てに集まるので木の下にはひとりでに道ができる。

     目的語は述語のあとに来るという大原則を破るのが「自 zì」(みづから)です。この語が目的語になるときは述語の前に来ます。1は明らかに同じ構造の文の繰り返しになっているのに、前半は「知人」、後半は「自知」という順番になっていることからも明白でしょう。
     訓読では、内容を重視する流儀の人は、「みづから」「みづから」(上記2)のように、ふつうの目的語同様に「を」「に」「と」「より」をつけます。しかし形式を重視する流儀の人は、返って読むわけではないという理由で、単に「みづから」と読んですませてしまいます。
     「自」にはこのほかに「自分で」という意味の副詞もあり、副詞ですから述語の前に来ます(3)。上記1や2を「みづから」と読む流儀の場合は、読みが同じになってしまうので、訳のときにしっかり意味を考えて訳さねばなりません。
     さらに副詞の「自」の訓読には「おのづから」という読みがあります(4)。「みづから」と「おのづから」の違いはあくまで訓読上の話です。中国語としては「他の力によらずそれ自体の・自主的な」という意味として、まるきり区別をしません。しかし日本語では、動作主が意志をもっている場合は「みづから」(自分で)、意志をもっていない場合は「おのづから」(自然と、ひとりでに)という読みわけをするのです。「づから」という部分が共通しているので、送り仮名をどこから送ろうと区別がつかないという点にも注意する必要があります。



  10. 助動詞・1(返読文字)
     述語の前に置かれ、「~ない」「~できる」「~しなければならない」「~したい」などの文法的意味を述語に加えます。これらの機能を持つ語は述語の後に置かれる日本語とは語順が異なるので、訓読では返って読むことになります。文法的な語なので文脈や場面に関係なく頻出する「必ず返って読む文字」というわけで、訓読ではこういう語のことを「返読文字」と呼んでいます。
    文字訓読訳例備考
    (未然形+)ず ない 文法-否定」を参照
    fēi (に+)あらず ~でない 文法-否定」を参照
    nán (連用形+)がたし ~しにくい 単独では「かたし」だが現実には必ず「がたし」になる
    (に+)あらず ~しやすい  
    (未然形+んと+)ほっす ~したい・しようとする  
    suī (と+)いへども ~けれども、たとえ~ても 名詞または用言の終止形に接続
    (を+)もつて ~によって  
    (終止形+)べし ~できる・~してよい ラ変型語には連体形に接続
    suǒ ところ ~されるもの 連体形に接続。文法-受身を参照
    所以 suǒyǐ ゆゑん 原因・理由・手段 連体形に接続。文法-受身を参照
    より ~から 名詞(用言は連体形にする)に直接接続
    cóng より ~から 名詞(用言は連体形にする)に直接接続
    ~と 名詞(用言は連体形にする)に直接接続。なお、「A與B」のように2つの語を並列させる用法もあるが、訓読では「AとBと」のように「と」を2回読み、「A與B」のように返り点をつけて、2回目の「と」を「與」の読みとし、1回目の「と」はAの送り仮名にする。
    使・令 shǐ・lìng (未然形+)しむ ~させる 文法-使役」を参照
    見・被 jiàn・bèi (未然形+)る・らる ~される 文法-受身」を参照
     なお、高校生用の漢文参考書では、これ以外に「有」「無」「多」「少」「爲(たり)」も返読文字扱いしていますが、もう上のほうで(「有」「無」「多」「少」は「(目的語+)述語+主語のように思えるもの」で、「爲[たり]」は「主語+述語+目的語」で)解説済みなので割愛します。



  11. 助動詞・2(再読文字)
     日本語の副詞の中には、たとえば「決して」は必ず「ない」などの否定語と呼応するといったように、特定の呼応関係をとるものがあります。漢文の助動詞の中には、日本語では「副詞+文末表現」に相当するものがあるので、訓読では同じ文字を2回読むという工夫をします。これを再読文字と言います。
     返り点は2回目に読む順番にしたがってつけます。具体的な例をあげましょう。「未」は訓読では「いまだ~ず」と読むので、例えば「聞未來 wén wèi lái」は「未だ來[きた]らずと聞く」と読みます。これにしたがって返り点をつけると、
    聞 未
    のように書きます。読むときには、再読文字「未」にさしかかったらまずは返り点がないものとしてそこで「いまだ」という一番目の読み方で読み、あとは返り点にしたがって「來」を読んでから「未」に戻り、そこで二番目の読み方の「ず」を読むというわけです。
     以下、再読文字の一覧を示します。
    文字訓読訳例備考
    例文
    wèi いまだ~ず まだ~ない 文法-否定も参照のこと
    未聞好學者也 wèi wén hào xué zhě yě 未だ學を好む者を聞かざるなり
     [訳]まだ学問が好きな人がいるということを聞いたことがない。
    猶・由 yóu なほ~ごとし ちょうど~のようである 「ごとし」の前は、名詞の場合「の」、用言の場合「連体形+が」
    過猶不及 guò yóu bù jí 過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし
     [訳]やりすぎは、したりないのと同じである。
    jiāng まさに~(んと+)す いまにも~しようとする
    ~するだろう・~しよう
    「す」の前の送り仮名が「未然形+んと」となる
    qiě
    魏王將入秦 Wèi wáng jiāng rù Qín 魏王將に秦に入らんとす
     [訳]魏王がいまにも秦に入国しようとしていた。
    將子貸三百金 jiāng zǐ dài sānbǎi jīn 將に子に三百金を貸さんとす
     [訳]あなたに三百金を貸してあげよう
    dāng まさに~べし 当然~すべきだ
    ~に違いない
     
    當有災 dāng yǒu zāi 當に災(わざはひ)有るべし [訳]災いがあるに違いない
    吏不當若是 lì bù dāng ruò shì 吏當に是[か]くの若[ごと]くなるべからず
     [訳]役人は決してこのようであってはならない
    yīng まさに~べし おそらく~だろう
    当然~すべきだ
    上記「當」「合」に比べて意味が弱くなるが、実際には同じような訳をすることも多い
    君自故郷來、應知故郷事 jūn zì gùxiāng lái, yīng zhī gùxiāng shì.
     君故郷より來[きた]る、應に故郷の事を知るべし
     [訳]君は私の故郷から来たからには、きっと故郷の事を知っているだろう
    すべからく~べし ぜひ~すべきだ  
    須要及時立志勉勵 xū yào jí shí lì zhì miǎn lì 須らく時に及んで立志勉勵するを要す
     [訳]ぜひちょうどいい時機に志をたててがんばることが必要である
    よろしく~べし ~するのがよい  
    宜急去 yí jí qù 宜しく急ぎ去るべし [訳]急いで立ち去るのがよい
    なんぞ~ざる どうして~しないのか(=すればよいのに)  
    盍反其本矣 hé fǎn qí běn yǐ 盍ぞ其の本に反[かへ]らざる [訳]どうしてその根本に立ち返らないのか



  12. 置字
     訓読に際して読まない文字のことを「置字」と言います。もちろん音読の場合はちゃんと読みますし、読む以上意味があるのですが、訓読ではその字の意味を直前の語の送り仮名としてもう表現してしまっていたりする関係で、その文字のところでは何も読まなくなってしまうというものです。
     どの字を置字にするかは訓読の流儀によって異同があり、また状況に応じて読まないほうがいいと判断した文字を臨時に置字扱いすることもあるのですが、だいたいどの流儀でもどんな状況でも置字扱いするだろうと思われる文字は次の5種類です。
    1. 而(ér)……順接にも逆接にもオールマイティに使える接続詞です。訓読では直前の文字の送り仮名として「て」「も」「ども」などと読んでしまうのでこの文字のところでは読みません。ただしこの字が文頭に来てしまった場合は、「直前」が存在しないわけですから、仕方なくここで「しかうして」「しかして」「しかるに」「しかも」「しかるも」など、状況に応じた読み方をします。
      作色而怒 zuò sè ér nù 色を作して怒る [訳]顔色をかえて怒る
      ※「作色」で文を切る場合は、「色を作[な]す。而[しか]して怒る」などとします。
    2. 於・于(yú)……場所などを表す前置詞です。この語がつく前置詞句は目的語扱いとなり述語のあとに来ます。そこで訓読ではこの後に来る語のところで「に」「より」などの送り仮名をつけ、直前の述語に返ります。比較文で使われたときには「よりも」という送り仮名もあります。この前置詞句が文頭に来て返る述語がない場合には、「~において」などと読みます。発音は違いますが、乎 hūも同様に用います。
      遊於野 yóu yú yě 野に遊ぶ [訳]野に出かける
    3. 矣(yǐ)……文末に用いられます。この字は現代中国語の語気助詞の「了」に相当し、「結果に気づいた」「結果を予想」「結果をうながす」など、変化や過程などの結果にかかわる気持ちを表します。
      死已三千歲矣 sǐ yǐ sānqiān suì yǐ 死して已に三千歲なり
       [訳]死んでもう三千年になってしまった。
      其爲惑也終不解矣 qí wéi huò yě zhōng bù jiě yǐ
       其の惑[まど]ひたるや終[つひ]に解けざらん
       [訳]その迷いは結局解けずじまいになるだろう
      往矣 wǎng yǐ 往け [訳]帰ってしまえ
      基本的には完了なのですが、推量や命令に必ずしも過去とは限らず、現在も未来もありえます。また感嘆文に使うこともあります。
      訓読では何も読みません。未来を表す場合には直前の述語に「ん」を、感嘆を表す場合には直前の述語に「かな」をつけたりする場合がありますが、「矣」がなくても未来は「ん」、感嘆は「かな」をつけるのですから、「矣」があるせいでそう読むわけではありません。
    4. 焉(yān)……文末に用いられる「焉」はもともと「于是 yúshì」の縮約されたものです。ですから「これに」「これより」などと読むこともあるのですが、この意味が非常に軽くなって、「そこに動作が存在することを聞き手に念を押す」意味の語気を示すことが多く、このときは訓読では何も読みません。訓読では置字扱いすることの多い字ですが、よく検討すると、どこかしら「于是」の意味を残していることがあるので、訳では考慮したいところです。そのことを説明するため例を長く引用しましょう。
      君子有三樂、而王天下不與存焉 jūnzǐ yǒu sān lè, ér wàng tiān bú yù cún yān
       君子に三樂有り、而して天下に王たるは與[あづかり]り存せず
       [訳]君子には三つの樂しみがあるが、天下を統治することはその三つには関係がない。
      この例では何も訓読していませんが、「焉」を「于是」に置き換えれば、直前で説明した「三樂の中に」という意味を残していることがわかります。
    5. 兮(xī)……古体の詩に用いられる囃子言葉的な文字で、訓読では一切読みません。
      大風起兮雲飛揚 dà fēng qǐ xī yún fēiyáng 大風起りて雲[くも]飛揚す [訳]大風が吹き雲がわきおこる
     訓読の返り点には、置字であることを示す記号は存在しないので、置字はしっかり覚えておかないと返り点にしたがって読むことができません。
     人によっては文末の「也(なり)」を置字にしてしまうことがありますが、そうなると置字なのかどうか判断がつかないことがあります。送り仮名が書かれていれば、直前の語の送り仮名を見て判断できることがあります。たとえば「在也」で「在」のところにリという送り仮名があれば、連体形接続の「なり」で読む「也」があるのに直前を終止形にしているからには「也」は置字だな、と判断できますが、終止形・連体形が同形の語に接続した場合はお手上げになることもあります。