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原著例言


  1. 例言
    一、漢和字典の類は今日までに大小樣々出て居りそれこそ汗牛充棟も啻ならぬが、支那文を讀む上に實際役に立つ手頃なものは存外尠いのではなからうか。この小字典は多少でも現行の漢和字典の弊を除き缺を補ひたいといふ意図の下に編纂された。
    一、本書は大正四年(民國四年)上海商務印書館で發行した陸爾奎方毅共編の學生字典を邦文に飜譯し旁ら辭源や中華大字典を參考して稍増補を加ヘたものである。
    一、字數は僅に八千字前後に過ぎないが普通支那で行はれてゐる文字は大概收録されてゐる。現行の俗字及び習見の古字は各部首の最後に一括して附録し、そのうち必要と思はれるものは本文にも入れ重複を厭はなかつた。
    一、説明はただその字の國訓を示すことはやめて、專ら意義内容を直接解釋する方法を採つた。簡明を旨とし要を盡して不要を省くことに務めたが、支那文を讀む上に必要な限り相當突込んだ説明をも施してゐる。
    一、支那語の發音はウエード式に據つて注した。前記學生字典では王樸氏の方法を採つてゐるが、吾國ではウエード式がやはり一般に通行してゐると考ヘたからである。
    一、反切・詩韻・説文部首順位は學生字典に無いもので、編者に於て新に加へたものである。在來の漢和字典で多く反切を省いてゐるのは稍音韻の源に遡んと欲する者には甚だ遺憾であつた。詩韻を加ヘたのは初學檢韻の用に供する爲である。またかかる普通字典に説文部首の順位を注したのは本書を以て恐らく嚆矢としよう。學問的見地よりすれば批評もあらふが、初學者には説文通檢でさへ檢索に困難な場合もあるのであるから多少の便宜はあると信ずる。ただ示したのは部首の順序だけであるから、例令ば(説一二)(説四五三)等とあるのは夫々(説文艸部十二)(説文我部四百五十三)等の略と承知して戴きたい。
    一、漢字の國訓と支那文を讀む爲の解釋を一册の字典に併録することは相當困難な仕事でもあり、その上熟語まで集めると厖大なものとなり存外使用に不便な場合もある。現在の日支開係より見て支那文を讀む爲の簡明なる字典を提供することはまんざら意義の無いことでもあるまい。本書は渺たる一小字典ではあるが利用の仕方によつては存外役に立ち最も大きな漢和字典の類にも匹敵し得るものをも持つてゐると信ずる。
    一、説文部首の順位を文求堂で加へた外は主として松枝茂夫氏の飜譯を煩はした。



  2. 贅後
    支那語を讀み知らうとする場合に、わたくしはこの書の藍本である「學生字典」を多年愛用して來た。もとより完備したものではないが、各字の意味の進展轉用を簡明な熟語を加ヘて引伸して行く説明の仕方が気に入り、半途半端な雜纂字典よりははるかに使ひよいからであつた。
    しかしながら、元來書名の示す通り決して高級な字書ではなく、自分が便宜だからといつても、それは不學の致す所であらうから、他人に薦めるほどの勇氣もなかつたのであつた。しかるに、相當な人からこの小字典は存外輕蔑すぺきでないとの話を聞いていささか人意を强うした。
    そとで、この小字典を邦文に譯して出版すれば、初學の人にはきつと益する所があると思ひ、これを當時(昭和十一年頃)城西に閒居の松枝茂夫氏に相談して賛成を得、同氏自ら筆を執つて翻譯に從事せられ、昭和十四年の春から組版に着手し、ここに出書の運びとなつた。これには共立社主春山君及ぴその從業諸君の努力が加はつてゐる。併せて感謝にたへないのである。
    わたくしがここに支那語と言つてゐるのは、現代支那語といふ様な狭義なものではなく、昔からの典籍に裁つてゐるものをひつくるめて言つてゐるのである。
    いはゆる漢文と支那語を別々のものの樣に取扱ふことは、かねがね、わたくしには會得が出來なかつた。大ざつぱに言へば、古代の典誥は古代の言語で、中世の文章は中世の言語であると思ふ。己れが他に通ぜざるの故を以て獨善に墜り、互に相輕んずる樣なことがありとすれば、甚だ量見が狹いと言はざるを得ない。
    ところが、近來では、一人で現代の支那語は勿論のこと、むつかしい古代の典誥、中世の文章をも、夫々古代中世の言語として立派にこなすことの出來る學者の輩出せらるるのを見ては、昭代の思澤に浴して衰朽の殘年を保つてゐる老人にも、まことに有り難いことと感ぜられ、竊に考へて居つたこともまんざら妄想でもなかつたと自ら慰め自ら喜んでゐる。
    しかし現在一般の常識では、やはり支那語といふものをさう廣義には解釋してゐないから、書名は「支那文を讀む爲の漢字典」として誤解を避けた所以である。
    なほ漢字典に、支那流の解釋と國訓とを、多人數で、しかも「買菜求盆」の態度で雜纂するといふことは、分つた樣で分らぬ樣なものを出來上らせる虞れがある。
    支那でどういふ意味に單字なり熟語なりを使用してゐようと、國訓は國訓で、彼等の解釋に左右されることはないのであるから、國訓はすぺて國語辭典の領域とし、わたくしの言ふ廣義な支那語の字典辭書とは區別することにした。かうすることは、自然と國用文字としての常用漢字を少數でことたらしめるたすけにもなり、また他の一面では、自然に支那語(俗語體でも文語體でも)を解讀しまたは書きしるすことを比較的容易にもするであらふ。
    支那との關係が密接になるに從つて、同じく漢字を使用してゐるので、便利な場合はもとより多いが却つて工合の惡いことも少くはないのである。極く手近な例をあげると、「御」の字の使ひかたであるとか、熟語でも「漢學」「漢文」「新聞」「汽車」「情實」「役人」「約束」「勘定」「料理」「不在」「勉強」「書院」「助長」等の如き、我國での意味と支那での意味とは相當の違ひがある。從つてこれ等のことははつきりさせて置かないと、これからは何かにつけて不便なことがあると思ふ。
    もとより、わたくしは、漢語を我國で使用する場合にまで、支那流の解釋を重硯すべきであるなどといふ卑屈且つ不當な考は毛頭も持つてゐるわけではない。ただはつきりとその區別を知つてゐることが、現下の時勢に於て必要なことであると信じ、又、漫然と、同文であるから支那人に對しては他民族より意思が疏通しやすいななどといふ安易な考を我國の青年諸君に持つてもらひたくないと思ふまでなのである。
    昭和十五年十月

    田中慶太郎しるす